僕のニューヨーク生活にとって、忘れてはいけない出来事がありました。
それは2001年、アメリカで起きた、9.11同時多発テロ事件です。
事件の当日、僕はソーホーのアパートにいました。
丁度そのころ、昼からの授業までの時間、朝の作品制作の作業を部屋でしているとことでした。
”ドン!”という音と、誰かが叫んだ悲鳴のようなものが聞こえたので、またアパートの前の交差点で車がぶつかったのだと思っていたところ、時間が経つにつれて、ザワザワと人の声が聞こえて、外の様子の異変を感たのでした。
ただならぬ外の様子に、何事かと思い作業を中断して、部屋の窓から外の様子を伺っていたところ、部屋でつけてあったテレビの映像が突然変わって、ワールドトレードセンタービルが燃えている映像が流れたのです。
僕の住んでいたソーホーのアパートは、ワールドトレードセンタービルに比較的近い場所でしたので、飛行機がビルに衝突した時の衝撃音と、その瞬間を目撃した人々の叫び声が、最初に聞こえた音だったのです。
しばらくすると、真っ白い灰を頭からかぶったビジネスマンの群衆が、僕のアパートの前をぞろぞろとアップタウンに向かって重い足取りで歩いていく光景が見えました。
これはいったい夢なのか、現実なのか、目の前で起きている情景を頭できっちと整理できないまま、ただ呆然と窓の外を見ていた記憶があります。
その年の大晦日の夜、いつもならどかこのパーティーに潜り込んでいるであろう僕ですが、その年は静かに新年を迎えたい心境だったのか、一人おとなしくアパートで過ごしていました。
テレビをつけると丁度、タイムズスクエアで行なわれている恒例のカウントダウンの中継をしていました。
いつもとは違う厳重な警備の中、深夜0時と同時にカウントが終わり、大きなくす玉が割れて夜空いっぱいに紙吹雪が舞う中、フランク・シナトラが歌う「ニューヨーク・ニューヨーク」が流れ出しました。
それをぼんやり聞きながら、いろんな事が頭の中を駆け巡りました。
テロ直後、街の風景が一変したのを思い出します。
大きな地下鉄の駅にはM16自動小銃を構えた警察官が睨みをきかせ、公共施設の建物に入るには、荷物検査と金属探知機の中を通らなければならなくなりました。
僕のアパートのある地域からダウンタウン側では、人も車両も立ち入ることができなくなり、そこに住んでいる住民は、写真付きの身分証明書をいつも携帯し、いちいち検問所で提示しなければ、中に立ち入ることができなくなり、近所に買い物に行くにも、なにかとわずらわしさがありました。
こんな状況では、当分ストリートで絵を売ることもできないだろうと諦めていましたので、当面の生活費をどうやって工面するか、いろいろと思いあぐねる中、炭素菌騒動などもあり、次なるテロの脅威を感じて、一時は日本に帰国することを真剣に考えていたこともありました。
また、ニューヨーク市内では、アメリカ国旗が車の車体やお店の入り口、部屋の窓、建物の壁と、あるとあらゆる所に貼付けられていたのでした。
日本人の僕の目には、それはとても異様な光景と映りました。特にアメリカ国旗をベタベタと貼っていた街は、チャイナタウン(中華街)でした。
なぜチャイナタウンなのかと思われるかもしれませんが、中国から来た彼らは、テロ以降のアメリカ人の強烈なナショナリズムを強く肌で感じていたに違いありません。
彼らはアメリカのためにというのではなく、身の安全、防衛本能から、自分たちはアメリカの味方なのだという意思表示をしているのだと僕は感じました。
テロによってもたらされた、アメリカ人の怒りの矛先が、日頃の不満や鬱憤と重なり、移民者、マイノリティーに向けられそうな気運があったのでした。
ロス暴動の時と同じ様に。
アメリカ社会の中で懸命に生きている彼らは、僕のような一留学生が感じている以上に、世の中の動きを敏感に察知しているのでしょう。
テロ以降の世の中の変わり様、僕自身の心の葛藤や矛盾など、そんなことを思いながら2002年の新年を向かえた記憶があります。
今のニューヨークはあの事件が遠い過去の出来事のように人々の記憶から薄れています。
僕自身もテロのことを思い出すことはめったにありません。
それだけ世の中はめまぐるしく変り、進んでいっているのだと痛感します。
結局、2004年に日本に帰国するまで、僕はテロの現場”グランド ゼロ”には行けませんでした。
日本に帰国するまでには、テロの現場をこの目で一度は見ておかなければいけないという思いと、悲惨な思い出の現場には行きたくないという思いがあり、そうしているうちに時が経ってしまいました。
あれから、もうすぐ7年になるのですね。早いものです。
(添付写真 New World Trade Center)