Archive for March, 2008

芸術家の老い

Tuesday, March 25th, 2008

 

昨夜、NHKハイビジョンで「残照〜フランス 芸術家の家」というタイトルの番組を放映していました。

老いた芸術家の老人ホーム”フランス国立芸術家の家”そこで織りなす人間模様を描いたドキュメンタリーで、色々と考えさせられたるテーマでなかなか良い番組でした。

 

簡単に内容を説明しますと、パリ南東部にあるこの施設には、創作活動をするためのアトリエや、ピアノのあるサロンが用意されており、ロビーや廊下、食堂には絵や彫刻など沢山の作品が飾られています。建物の外には散歩ができる大きな庭があり、とても羨ましい環境です。入居者は平均年齢80歳を超える芸術家たちです。

画家、彫刻家、デザイナー、音楽家、などみな自分の才能をよりどころに生き、そして栄光を手にし、喝采を浴びたクリエイター達です。

そんな彼らは、やがて年を重ねるにつれ、自分たちのまわりからは人が去り、世間からは忘れられた存在となっていきました。

しかし今でも彼らはアーティストとしての魂とプライドを持ち続けていて、部屋には若かりし栄光の時代の写真が飾られ、パーティがあれば、おしゃれをします。

過去の栄光と老いとの葛藤、さまざまな思いが一人一人の心のなかで交錯し、今も絵を描き続ける人、昔話に花を咲かせる人、老境の恋に身をひたす人など、偉大なる過去を背負った人間は、老いてどう生きるのかを描いた内容でした。

 

番組中で、ある女流画家の方が、最近描いた絵が売れたという出来事がありました。

彼女はとても嬉しそうに自分の絵が売れたことを色んな人にしゃべり、そしてカメラに向かって絵の代金に受け取った小切手を見せて、大はしゃいぎしていました。

そんな彼女が「これでまた自信を取り戻せたわ!」と。

そうなんですね。人間は肉体が老いようが、生きているかぎり生きる力を、気力を持ち続けていたいのです。

絵が売れたことは彼女にとっていろんな意味があると思うのです。自分の存在を認めてもらったこと、自分の仕事を評価してもらえたこと、お金が入ったことなど、彼女は生きる力をまた授かったのです。

 

僕もやがて老いていく訳で、老いてもなお作品が作れるかどうかは分かりません。病気になるかもしれませんし、目が見えなくなるかもしれません。

ただ、それまでに慰めでも自分なりにがんばったと思える仕事ができたのなら、老いてもアーティストとしての魂を持ち続けていけるのかなと、ちょっぴり考えさせられました。

ニューヨーク生活5

Monday, March 24th, 2008

ニューヨークに来て半年が過ぎた頃、僕は”The Art Students League of New York”(http://www.theartstudentsleague.org/)というマンハッタンのミッドタウンにある美術学校に転校しました。

ここに入学できれば4年間のI-20を発行してくれるし、なによりも語学学校にはもううんざりしていたのでした。

まだまだ僕の英語力には問題がありましたが、これ以上語学学校に通っても英語の上達はあまり望めないと思っていました。

要するにちゃんとした英語でしゃべれるのは先生だけなのです。周りにいる学生同士は変な英語で会話するものですからなかなか上達しません。

とにかく語学学校に行っていては一日の大半を語学の勉強にかなり時間がとられてしまい、当初の目的どうり形だけでも生活をアート一色にしたかったというのが本音です。

 

この美術学校は1875年に設立された大変歴史のある学校で、日本を代表する洋画家、国吉康雄がかつて通い、その後教職をしていたことがあります。

また、かの有名なジャクソン・ポロックやロバート・ラウシェンバーグなど多くの有名アーティストが若い頃に通った学校でもあり、あのマドンナも有名になる前は、この学校で絵のモデルのバイトをしていたそうです。

 

僕は日本で活動していた内容の資料や作品のポートフォリオを学校に提示し、その後面接を受けて入学を許可されましたが、実際のところ美術学校にはぜんぜん興味がありませんでした。と言うよりはそもそも学校という所に興味が無かったのでした。

僕はニューヨークでただアートのことを考え、自己と向き合える環境が欲しいだけだったので、色んな意味で僕にとって学校という環境はあまりにも雑音が多すぎる場所だと思っていましたので。

 

とは言うものの、入学したからには一様まじめに学校に行かなくてはなりません。

なぜならアメリカでは留学生という立場(身分)の僕は不真面目な生徒と学校から一度烙印を押されてしまうと、せっかく手にしたI-20を失うことになるかもしれないからです。

そうなりますと後々面倒な話になります。

特にスチューデント アドバイザには、悪い印象を与えないように普段から気を付けなければいけなかったのです。

彼女は大変気難しい性格で、一度彼女との間でトラブルを起こしたら大変なことになるということで生徒達の間では有名でした。しかも彼女の判断でI-20が発行されたり、されなかったりと学校では力のある人なのです。

 

どこの学校にも必ずこういう難しい人が一人はいるもので、留学生達は彼女との関わりを極力避けていましたが、僕はといいますと、あえて学校へ行くとまず最初に彼女の所に行き、万遍な笑みであいさつをすることにしていました。

これは”学校に来ていますよ。”みたいにちゃっかり彼女にアピールする意味でです。

些細なことのようですが、先々これが絶大な信用を彼女から得ることになったのです。

 

クラスは絵画、彫刻、版画と大きく三つに分かれていて、それから技法や材料などによって細かいクラスに分けられてあります。

どのクラスを受講するかは自分で決めることができるので、僕はその中で彫塑のクラスをメインに受講することにしました。

なぜそのクラスを選んだかというと、人体というアカデミックな勉強に少し興味があったのと、子供の頃から粘土遊びは一番好きな遊びで、粘度という素材を勉強したかったからです。

 

彫塑のクラスは建物の地下の一番奥にありました。天井の一部がサンルームのようになっており、地下にある部屋でも太陽光を十分取り入れることができてたいへん明るい空間でした。

地下の教室は、まず用事のない人が来ることは滅多にありませんので、なんとなく学校から隔離された感じがします。その為か、生徒もマイペースに休憩したり、制作したりと自由な雰囲気のする場所で僕はそんなところが特に好きでした。

クラスメイトは全員で15名ほどで、アメリカ人の他に様々な国の生徒がいて、年齢も幅がありました。

ギリシャ、フランス、ロシア、メキシコなどですが、その中で日本人は僕だけでした。

つづく。

ニューヨーク生活4

Sunday, March 16th, 2008

語学学校の生徒の大半は、ラテンアメリカ系の生徒でした。

僕のクラスも8割がそうで、アジア系、ヨーロッパ系の学生は少数でした。

 

入学した最初の日、廊下の向こうから背の低いアジア系の青年が万遍な笑みを浮かべながら駆け寄って、突然僕にハングル語で堰を切った様に話しかけてきました。

僕は呆気にとられながら彼がしゃべり終わるのを待って、ハングル語は分からないことを伝えると、彼は唖然とし、それから相当落胆していました。

ハングル語が解らずとも彼の表情で大体のことを読み取ることができます。

たぶんその様子から、彼も僕と同様に今日初めてこの学校に登校して、周りの学生が南米系ばかりで、少し心細くなっていたに違いありません。そんな時に僕を見つけて、同胞の韓国人がいると思い違いをして駆け寄って来たのでしょう。

ちなみに僕は何度かNYで韓国の方から声をかけられました。どちらかといえば韓国系の顔をしているのでしょうか、今までそんなこと思ったことがなかったのですが。

まあ、それはどうあれこのことがきっかけで彼とはこの学校で一番の友達になれました。

 

授業はといいますと驚きの連続でした。

とてもフランクというか、緊張感が無いというか。お菓子やジュースを食べたり飲みながら授業を受けるのは当たり前、ガムを噛みながら発言したりと、日本人の僕から見ればそれはあまりにもマナーがないように思うのですが、彼らにしてみればそんな風にはぜんぜん思ってなく、これも文化の違いなのでしょうかね。

それでも授業については積極的かつ真剣に取り組んでいたと思います。つまらない授業だと先生に正面切って”退屈だ!”と言うあり様です。「もっとアグレッシブにやってくれ!」なんてことを要求します。

いつもワンパターンの授業、テキストを読むだけの授業なんてものはここでは許されないのです。

実際、あまり語学学校の先生は生徒から尊敬されてないようでしたが、ほとんどの生徒が大学に上がるための必要な英語力を習得するのに懸命だったのは事実です。

 

生徒には様々な諸事情や境遇の人がいました。

トルコから来ていたある生徒はビジネスをするためにニューヨークに来ているのだと言っていましたが、実情は出稼ぎ労働者です。

夕方7時から翌朝の6時まで駐車場の管理の仕事を月曜日から日曜日まで、要するに無休で働いていました。

その生徒は毎日仕事が終わってその足で学校に来ていました。学校は半日だけだったので彼は昼に学校を終えると自宅に帰って眠り、また夕方から仕事に出るのだと言う。

毎朝充血した目をこすりながら眠そうに話しかけてくる彼を見るたびに、過酷な生活ぶりが想像できました。

彼はそんなに忙しい中でも、ちゃんとした英語を身につけるために語学学校に行って、勉強している姿勢には頭が下がります。

比較的会話にはそれほど不自由をしていない彼でしたが読み書きが不得意で、それを克服するためにわざわざ学校に来てまで英語を勉強していました。

そして彼程ではなくとも半数以上の学生は経済的に厳しいく、何かしらの仕事をしながら忙しい合間を縫って学校に来ていたようでした。

つづく。

ニューヨーク生活3

Monday, March 10th, 2008

ニューヨークに着いた翌朝、体は疲れているにも精神的にハイになっていたせいかあまり熟睡できず、早くに目が覚めました。

とりあえず顔を洗って外に出てみると、雲一つない空に強い光は放ちながら太陽が昇りかけていました。

道路の両脇には大きな街路樹が遠くの方まで連なり、その幹の間から家々が見えます。この辺りはいわゆるミドルクラスの人間が住んでいる地域らしく、どの家もこぎれいで、ガレージには車が2台ほどあり、庭の芝生も奇麗に手入れされています。

こういう穏やかで平和的な景色は僕のテンションとギャップがありすぎて、より一層気持ちを憂鬱にさせるのでした。

 

前の家の住民が新聞でも取りに出て来たのか、こちらの方を見てまたそそくさと家の中に入っていきましたが、見かけない東洋人の男を見て不振に思ったのでしょうか。

当時の僕はどうしても思考がネガティブな方向にいってました。

 

前回もちょっと書きましたがニューヨークで長期滞在するには何がしらのビザが必要です。

そこで僕は比較的取得しやすいと言われている学生ビザを取得しました。

学生ビザを取得するには当然ですがどこかの学校に行く必要があるので、僕はラガーディア コミニュティーカレッジESLという大学に付随した語学学校に入学しました。

なぜそこに決めたかと言いますと、英語がまったくだめというのもありまして、美術学校に入る前に語学をなんとかせねばというのもありましたが、とにかくその学校はとても授業料が安く、そしてI-20という学生証明書を発行してくれるというのが一番の理由でした。

アメリカではこのI-20がなければ学生ビザを持っていても違法滞在となります。

変な話し、お金を出せば、このI-20を発行してくれる偽の学校もあります。要は表向きは学校として政府に登録してあるが、実際は事務所があるだけで校舎や教室もなく、当然授業もないというのです。学校は行かずにI-20だけがほしいという人にはまったく都合のいい会社なのですが、もちろん違法ですので、ビザとI-20があるから自由にアメリカを出入りできる保証はありませんけどね。

 

アメリカに来て思ったのですが、ダメなものは絶対ダメというのではなく、なんでも抜け道とか例外というやつがある社会なのです。

抜け道とかと例外とかというとあまりいいイメージではありませんが、見方を変えますと、色んな角度からチャレンジできるチャンスのある社会って言うこともできるのです。

僕なんかは、いい加減ではあるけれど、人情味のある社会のような感じがするのです。

つづく。

ジャクソン・ポロック

Thursday, March 6th, 2008

昨夜、BS2で「Pollock」を放映していましたので見てしまいました。とりわけポロックが好きという訳ではないのですが、あの時代のアート事情に興味がありましたので、そういうのを気にしながらとても楽しく見させて頂きました。

映画の終盤で第一線で活躍していたポロックが10年も経つと新しい作家達にその座を奪われ、苦悩しているといいましょうか、荒れていたシーンを映画で描いていましたが、僕はポロックの作品ぐらいは知っていましたが、あまり彼の人となりなどは詳しく知りませんでしたので、あのシーンを見た時に”やっぱりそうなったか!”と変に納得してしまいました。

要するにポロック級の人でも常に第一線で活躍することはできないのです。

 

アートは生き物ですから時代と共に変化していくものだと思うので、アート界で常に注目を浴び続ける存在でいることの難しさ、厳しさというものは半端ではありません。たぶんそんなことは不可能じゃないのかと思っています。

ましてや時代が進むにつれて、新しいものが出てくる、そして古くなったものが消えるという一連のサイクルがどんどん短くなっているように思うのです。

 

ある意味、ブレイクしてしまった人は大変です。

一度有名になった人で、その後も長きに渡り良い作品を作り続けている人は稀です。多くの作家は仕事が惰性になっているように思います。(ちょっと過激な意見です。)

元来、世間が認めてくれようが、くれまいが自分の仕事を一生懸けて追求できれば一人の作家としてこれは満足できる人生ではなかろうかと思いますが、下手に世間が認めてくれたりするから、訳の分からないプレッシャーを感じたり、人の評価を意識してしまうのだろうなぁ、なんて思うのです、が。

そうは言ってもまあ難しいですね、これはだけは。誰だって評価してもらいたいしね。

僕はといいますと今日も絵が描けて感謝です。


ニューヨーク生活2

Sunday, March 2nd, 2008

そもそもなぜニューヨークを目指したのかといいますと、理由は単純明快。

ニューヨークは世界でもっともアートが盛んな場所だからです。当時はそう思い込んでいました。

毎日アートに触れ、アートのことだけを考えて生活できたらどれほど幸せだろうかと。

 

好きな場所で、好きな事を、思う存分したいという思いは、まったくもって本当に贅沢なことではありますが、人生の中で一度ぐらいは経験したいし、自分の努力で出来る可能性があるのならするべきだと思うのです。

人それぞれ環境や境遇、立場ばなどの違いはありましょうが、後先の事など考えなければやれないこともないのであります。(ちょっと無謀というか無責任ですがね。)

これは密かに自分の中で長年思い続けていたことで、期が熟すのを待ってやっと実現できたのでした。

僕にしてみれば、ニューヨークは三蔵法師が目指した天竺のような憧れの場所だったのです。

 

それを実現するには当然いくつかの問題をクリアしなければなりませんでした。

特に大きな問題として一つはビザの問題。

一時期アメリカは、ビザ取得が非常に困難な時期がありました。一番取得しやすい学生ビザさえ、なかなかもらえないという状況が何年か続いていました。

それからお金の問題。

とにかくニューヨークで最低一年間は働かなくともなんとか生活ができるぐらいだけのお金を準備する必要があると考えていました。ニューヨークでバイトするという選択もないわけではありませんが、(基本的にアメリカの法律では一部を除いて留学生のアルバイトは禁止です。)とにかくアートに関わること以外に時間を割かれるのは極力避けたいと思っていましたので、特にニューヨーク行きの一年前はただひたすら働き、お金を作るためだけに全てを注いだ一年でありました。

 

数年前に一度チャレンジしようとした時期がありましたが、これらの問題はもとより他にも問題が山積されていまして、断念した経緯がありました。ところが今回はそれら全ての問題がスムーズに解決できたのです。

 

やはり何か事を始めるというのは早い、遅いというのではなく、人生は何事も時期といいましょうか、タイミングというものがあるにちがいないと思いました。出来ない時にはどんなことをしても出来ないもので、出来る時には、いとも簡単に事が進むものだとつくづく思ったのです。

というのもこのとき僕は30を裕に過ぎていましたので。 

つづく。