Archive for the ‘ニューヨーク生活’ Category

ニューヨーク生活・・・・・・筆を置く。

Tuesday, May 5th, 2009

先日、アメリカのペンシルベニアからメールが届きました。

送り主は、5年前にニューヨークで僕の絵を買って下さった方からでした。

 

彼女とは当時何度かメールのやりとりをした経緯もあり、僕も彼女のことは覚えていました。

懐かしさと嬉しさで、すぐに返事を出しますと、再び彼女から返事が届き、僕が日本でアーティストとして活動していることに、とても喜んでくれていました。また、近年の作品については、賛辞のお言葉を賜りました。(ありがたいが、まだまだです。)

 

彼女はすご腕のビジネスウーマンで、複数の銀行の重役というポストに就いていましたが、この世界的大不況のあおりを受けて、彼女ほどの有能な人でも去年の末頃に失業されたようです。

それでもご主人様と2人のお子様たちとで、精神的に充実した日々を送られているようで、安心しました。

 

人は誰でも人生の中で、大なり小なり不運なことが起こります。それをポジティブに受け止め、感謝の気持ちを持って、日々の生活を楽しんでいる彼女に感心しました。

 

実は今年に入り、ニューヨークの友人に預けてあった僕の荷物を全て日本に送ってもらい、さらにニューヨークで作った銀行口座も解約して、完全にニューヨークから引き上げてしまった感じの僕でありまです。

そのせいか、以前に比べてニューヨークと日本の距離がずっと広がってしまったような、ちょっぴり寂しい気持ちになっていたのです。(本人がそう仕向けておきながら。)

そんな折、ペンシルベニアから一通のメールが届き、僕は思い出したのです。

そう!僕の作品は、まだまだ沢山のアメリカの家庭に飾られてあり、アメリカという大地にしっかりと僕の分身達が存在しているのだということを。

 

物を作る(創る)人間は、なんて幸せなんだろう!

 

前置きが長くなりましたが、このニューヨーク生活、1999年秋から2004年秋まで、僕が過ごしたニューヨーク生活を書いてきましたが、最近なかなか更新ができてない。実のところ、筆が進まないのです。

 

もともとNYでの生活を、細かいところまで自分が忘れないために、記録のようなつもりで書いていました。

まだまだ書きたいこと、書きたいけど公にできないこと?、色々とあるのですが、どうも気持ちがそっちに向きません。

 

思い起こせば、今年になって自分の中で大きな変化がきたような。

何年か周期で来るのです。これはなんだろうと。

 

そのせいなのか、今年になって人と会う機会が激増している。それも初対面の方がが大半。

 

とにかく外へ外へという気持ちが強い。その原因の一つとして、どこかこれまでの仕事のスタイルがマンネリ化してきたんじゃないかと思うふしがある。

もう一人の自分がまだまだやりきっていないじゃないか、力持て余しているじゃないか、って囁いている。

そう、昔ニューヨークのストリートで感じたようなドキドキ感を、また味わいたいと思っているのである。

 

何でもいいから新しいことに挑戦したい! とね。

 

そういう思いも関係してか、ニューヨークに残してあったものを整理したのかもしれません。

 

という訳で、ひとまず僕のニューヨーク生活のお話、一旦終わりとします。

またいつか書きたくなる時がくるまで、ニューヨークのことはひとまず自分の中のトランクにしまい込むことにしました。

 

どのくらいの方が見て下さっていたのか、そして待ちわびていてくれたのか、よくわかっていないのですが、とりあえずもし、そんな律儀な方がおられては、大変申し訳なく感じている次第でありまして、けじめとしてここに宣言します!

 

ところでブログはこれまでどおり、できるだけ更新したいと思っていますので、見て下さいね。

 

 

 

お知らせ

美術教室開催!!

ニューヨーク生活32

Wednesday, March 4th, 2009

彼らは僕が無事にここに来ることができるのか、かなり心配していたらしく、家の前の道路まで出て来て、僕の到着を首を長くして待っていたのでした。

僕はさながら長旅でも終えたような気持ちで、彼らとの再会を喜びました。そして僕をここまで連れて来てくれた、たいへん親切なご夫人に、心から感謝とお礼を述べて、ご夫人の車が見えなくなるまで手を振って見送りました。

 

僕らは少し談笑してから、急ぎ足で彼らの車で会社に向かいました。

会社に到着してから、会社内を少し案内してもらって、僕は会議室に通されました。

会議室では、この会社が作っている壁紙のサンプルやデザインの原画などを見せてもらい、製品の説明、会社の形態のようなものの説明を一通り話してくれました。

 

そこの会社が作っている壁紙は普通の壁紙とは少し異なり、材料は樹脂のような物で、ちょっと厚めになっています。それはデザインのテクスチャーまで再現できるようになっているのです。

それらの壁紙は主に世界中のホテルやレストランに使っているとのこと。本社はイギリスにあり、工場がドイツということらしいです。

デザインの仕事はイギリスの本社とニュージャージにあるこの会社でしていまです。

 

まあ、ざっとこんな感じの説明を受け、そして話は核心へと入り、彼らからある提案を受けました。

早い話がどうやら僕をデザイナーとして雇いたいということらしいのです。

具体的なお給料のお話まで出まして、彼らが提示した額は僕のスキル(デザイン力、技術力)をきちんと認めてくれたであろう額でした。

それから最初はどういう感じで仕事をしてもらうとかなど、さらに話は突っ込んだ内容に進んでいったのでした。

そして極めつけに一言、「あなたはアーティストより、ぜったいデザイナーが向いている!」と断言されてしまいました。

 

話がどんどん進んでいくので、ちょっと戸惑いながらとりあえず、僕はなんとかその場を凌いで、後日連絡することを約束して彼らと別れたのでした。

 

マンハッタンのポートオーソリティー・バスターミナルに着いた頃には、すっかり日も暮れていました。

ハプニングあり、親切あり、再会ありの、久しぶりに濃い一日でした。

 

それからどうなったかといいますと、僕は彼らの提案をお断りしたのでした。

まあ、そうじゃないと今頃はまだ、日本に帰ってきていないかもしれません。

 

けっして悪い話ではないのですが、当時の僕は美術学校に入学して、やっと自分が尊敬できる先生に出会い、彼の元で学べる喜びと、それからストリートも順調に作品が売れるようになりだした頃で、この両方を捨てることができなかったのです。

 

そして、今となってはアーティストもデザイナーも、どちらがどうと言うこともなく、こだわりはありませんが、最後に彼らが僕に言った言葉、「あなたはアーティストより、ぜったいデザイナーが向いている!」という一言は、当時の僕としては、ショックな宣告だったのです。

 

はたして僕が下したこの結論はどうだったのか。

どう考えても、目先のことしか考えずに判断してしまっことは、否めません。

もし僕がその会社でデザインの仕事をしていたら、今頃どうなっているんだろうなんて、考えたところでわかりませんが、もしかすると、この世界的な大不況の影響で、職を失っているこもしれませんし、その逆で大躍進しているかもしれません。

 

でもね、グリーンカードを取得して、NYにずっと住む事が最終的な目標であれば、僕の下した決断は間違っているのかもしれません。

しかし、僕の目標はそうではなかった。

 

不思議と彼らからこの提案を受けた時、迷いはまったく無く、すでに僕の気持ちは決まっていました。この話を受諾することはないだろうと。

なぜだかわかりませんが、まさに直感です。

 

最後にもう一つエピソードを。

実はニュージャージの会社へ訪問する前に、僕は密かに彼らがたぶん好むであろうと思われる作品を4点ほど新たに作って、それを鞄にしたため持って行ったのでした。

 

僕の思惑通り、彼らはその作品をまた購入してくれたのでした。

 

我ながら、したたかです。(笑)

ニューヨーク生活31

Tuesday, March 3rd, 2009

               写真 ポートオーソリティー・バスターミナル

 

ある週末の土曜日、僕はいつものようにストリートで絵を売っていました。

そこへ、1人組の男女が近寄ってきて、「beautiful! great!」となにやらそんな言葉を連呼しながら、僕の作品を真剣に見入っていました。

 

やがてそのカップルは、おもむろにその中から4枚の作品を手にして、これを売ってほしいと僕に言ってきたのでした。

それから、いろいろと作品についての質問を受け、彼らの名刺を渡されました。

 

どうやら彼らはご夫婦で壁紙を作っている会社を経営されているようで、僕の作品が、壁紙のデザインとしていいのだと言うのです。それで、一度会社に来てくれないかと言われました。名刺の住所を見ますとニュージャージと書いてありましたので、それほど遠くないので、僕は心良く「Yes!」と返事をしたのでした。

 

その後、彼らと連絡を取合い、僕はニュージャージにあります彼らの会社へ伺うことにしました。

とりあえず、僕はマンハッタンにあります、ポートオーソリティー・バスターミナルからバスに乗り、約1時間半ぐらいのところにあります彼らの自宅に行き、それから彼らと一緒に会社へ向かうことになりました。

 

実のところ、僕は目的地まで、はたして無事に辿り着くことができるであろうか、一抹の不安がありました。一様彼らから、行き方を聞いていたのですが、なんとなくあやふやに自分が理解していることを僕自身が自覚していましたので。

 

まあ、案ずるよりも産むが易し、出たとこ勝負での出発したのでした。

 

僕は彼らから教えられたバスに乗り込み、バスの運転手に目的地を告げると、そっけない態度で「知らない。」と。  えっ、ウソだろと思いながら、再びもう一度聞いても答えは同じでした。

もうバスは発車していて後戻りできません。キョトンとしている僕を見かねたのか、先ほどから僕とバスの運転手の会話を聞いていたすぐ側のおばさんが、おもむろに後ろを振り向き「○○○まで行く人いない〜ぃ!」と叫んでくれたのでした。するとあるご夫人が手を上げて「私はその近くまでいくから、私と一緒に降りるといいわ!」って言ってくれたのでした。

棄てる神あれば拾う神あり、予期せぬおばさんの行動で、僕はなんとかこの窮地を脱出できそうです。

バスを降りる時、乗客の人に叫んでくれたおばさんに、できかぎり丁重にお礼と別れを告げて、ご夫人と共にバスを降りたのでした。

 

バスを降りたのはいいのですが、ここからの行き方がわかりません。

僕は早速彼らに電話をしましたが、上手くここがどこなのか説明できないでいると、それを見かねたご夫人が電話を代わってくれました。

ご夫人は電話を切ると、「ここから歩いて行くのはちょっと難しいので、私が車で連れて行ってあげましょう。」って親切な提案してくださったのです。

再び、今度はこのご夫人に助けてもらうことになり、こちらとしてはありがたいほかありません。見ず知らずの人に、こんなにお世話になってもいいものだろうかと思うのですが、ここはご夫人の親切に甘まんじるほかありません。

 

ご夫人の家はそこから歩いてすぐの所でした。閑静な住宅街の中の大きな木が庭にある、とても立派なお宅でした。たしか車はボルボのステーションワゴンだったでしょうか、かなり恐縮しながら助手席に座った記憶があります。

それから車で15分ぐらい走った後、ようやく僕は彼らの家に辿り着くことができたのでした。

 

つづく

ニューヨーク生活30

Friday, February 27th, 2009

 

米シティ、事実上の政府管理に!

今朝、インターネットでこんな見出しのニュースを見ました。

米シティ、少なからずとも僕にとって無視できないニュースです。

 

NYに渡った頃、まず最初に何をしたかといいますと、銀行口座を作りました。

アメリカでは、自分の銀行口座が無いと、なにかと生活に不便をきたすのです。

なぜならば、家の家賃、電気代、ガス代、電話代、テレビ受信料などの支払いはパーソナルチェックという小切手で支払うのが、一般的です。

もちろん、クレジットカード引き落としもできますけどね。

 

また、アルバイトのお給料も、チェックを渡される事が大半でしたし、確か、奨学金もチェックで受け取りました。

 

なので、銀行口座を持っていないと、かなり不便です。

 

このパーソナルチェック、日本ではあまりなじみないですよね。

いわゆる小切手というのもで、使う時にその小切手に相手の名前と金額を記入します。そして、自分のサインを書き込めばいいのです。

 

これのいいところは、無くしたり、盗難にあった場合、すぐにキャンセルできますので、損害が少ないということです。

逆に使う側がキャンセルできるので、一般のお店でパーソナルチェックを使う事はあまりないといいますか、だいたい使えません。

 

そこで僕が作った銀行口座が、米シティバンクでした。

とにかくマンハッタンなら、一番支店の数が多かったのではないでしょうか。CHASEも多かったと思いますが。

 

ちなみにアメリカで口座を作る場合、色々と用意するものがあります。

僕の場合は留学先の学校からのレターと、パスポート、ビザ、I-20、住所が確認できるもの(例えば、電気代の領収書とか。)それとできればソーシャルセキリティナンバー(アメリカの年金番号)です。

 

NYに渡って間もない頃でしたから、たかが口座を作るにも、あたふたしたのもです。

 

ちなみに、現在僕の米シティバンク口座は???                     

大丈夫です(笑)

ニューヨーク生活29

Thursday, December 25th, 2008

ニューヨークに来てから止めたものがあります。

 

それは、タバコです。

 

理由は健康の為に止めたのではなく、実を言いますと高くて買えなくなったのです。

NYはアメリカで一番タバコの税金が高いのです。

例えば、マルボロ一箱10ドルぐらいします。

 

当時僕は、一月の食費代を100ドルに抑えようと決めていました。

単純に考えると一日の食費代は3ドル33セントということになります。

 

かなり厳しいですが毎日自炊すれば、出来ないこともないのです。

それを考えると、僕にとってタバコとは大変贅沢品になる訳です。

そんな贅沢をする訳にはいかず、タバコを止めたのでした。

もちろん、今では止めてよかったと思っています。

 

タバコって怖いです。知らず知らずにタバコに支配されている自分がいたりすます。

例えば真夜中でも、タバコが欲しくなったら買いに行ったりとかしますからね。

また、NYではタバコが吸える場所も限られます。ほとんどの公共の建物の中では吸う事ができません。レストランでもそうです。日本みたいに喫煙席などありませんから。

外で吸うしかないので、わざわざ外に出て行きます。オフィスビルや学校の入り口にはよくタバコを吸っている人がたむろしています。

 

僕も学校に入った当初は吸っていまして、学校の入り口の石段のところに座ってタバコをよく吸っていました。

だいたいそこにいる連中の顔ぶれがいつも同じなので、自然と顔見知りになるわけですが。

学校で最初に仲良くなった友人も、その中の一人でした。

 

そう考えるとタバコも悪い面ばかりではないですけど、吸わない人にとってはやっぱり迷惑なモンなんです。

分煙というのを日本ではよくやってますが、ぜんぜん意味がないと言いますか、効果がないらしいと、昨日のニュースで確か言ってたような。

 

やはり、日本でもタバコ税は上げるべきだと僕は思いますがね。

ニューヨーク生活28

Monday, December 15th, 2008

僕は学校で彫塑(sculpture)のクラスを受けていました。

主にモデル(ヌード)を見ながら、粘土を使って形を作っていきます。

大きい作品になると、鉄パイプやアルミ線などをつかってフレームを作り、それに粘土を付けて作ります。

 

フレームで思い出しましたが、以前僕の横で、実物大の大きさで人体を作っていた女の子がいました。その作品は台座からかなりオーバーハングしている、いわゆるバランスの悪い作品でした。

それはいいのですが、肝心要の土台となるフレームや台座が僕が見る限り、雑に作ってあったのです。

僕は密かに彼女の作品がいつか僕の方に倒れてくるのではないかと、いつも心のどこかで恐怖を感じながら制作をしていました。

そしてある日の事、それが現実となったのでした。

想像していたとおり、フレームの取り付け方が甘かったのでしょう、そのフレームの取り付け部が粘土の重量に耐えきれず、外れてしまったのでした。粘土の重量は、想像以上に重いのです。

ギィィィィーと唸りをあげながら僕の方に倒れてきてきましたが、いつも気にしていたおかげで、奇跡的にそれを交わすことができたのでした。もし直撃したらならば、大怪我をするところでした。

ただ僕の身代わりに、僕の作っていた作品が4メートルぐらい飛んでいき、何日もかけて作ってきた作品が、一瞬で見るも無惨に当然ぐちゃぐちゃですわ。

 

そんなことがありましたが、話はモデルに戻します。

モデルは老若男女いろいろな方がいまして、例えば退役軍人の、やたら筋肉質の爺さんや、スキンヘッドのイカツいゲイ、ものすごい巨漢のおばさんなど、さすがNYですね、キャラクターもとっても濃いモデルが多いです。

作る方から言わせてもらうと、普通でいいんですけどね(笑)

 

特にこの巨漢のおばさんは、なぜか僕に会うと、覚えたての日本語で「センセイ!センセイ!」と言いながら、その巨体をグイグイ押し付けながらハグしてきます。

さすがにこれには、ちょっと参りましたです。

 

モデルは確か、1ヶ月から2ヶ月ぐらいで順々に変わります。

 

ある時、ダンサーの女性がモデルをしていたことがありました。

モデルにもよりますが、だいたい授業を重ねるごとにクラスの皆と仲良くなり、授業の最後の方は、終わりが名残惜しい感じになります。

 

その日は、彼女の最後のモデルの授業でした。

そのころ、クリスマスシーズンということで、生徒の中で欠席者が日々目立ってきていましたが、その日は先生が来ない日というのもあり、特に出席者が少なかったのです。

結局、授業が始まる時点で、僕を入れてたったの三人だったのです。普段なら20人はいるでしょう。

それも、その三人共が、あまりイケてないおじさんです。

 

そんな状況ですが、授業は普段通りに始まりました。

彼女にポーズをとってもらって、10分ぐらい経ったころでしょうか、彼女の目から大粒の涙がポロポロと…………..???

我々イケてないおじさん三人組は、何事が起こったのであろうかと、お互いの顔を見合わせてオロオロするしかありません。

 

恐る恐る彼女に、その涙の訳を尋ねました。

すると彼女曰く、このクラスで自分がするモデルの最後の日に、あまりにもクラスを受けている人が少ないことが、なんとも寂しいと言うのです。

 

なるほど。

僕なんかは、少ない方がいいではないかと思ってしまうのですが、彼女は違うのです。

ヌードであろうが、なんであろうが沢山の人に自分を見てもらいたいのです。そして、仲良くなったクラスの皆と最後の授業を同じ空間で、共有したかったのでしょうね。

 

別に僕らが悪い訳ではないのですが、なんだ彼女に申し訳なくてね。

それでも彼女はプロです。

こぼれる涙を我慢して、潤ませた瞳のまま、モデルを続けてくれました。

 

正直、この日の授業はやりにくかったです。

いつもの様な冗談まじりの楽しい会話も無く、終始重い空気の中での授業でした。

 

普段真面目にクラスに来ていなかったツケがまわって来たのか、こういう日に限って学校に来てしまうものです。

まあ、日本から来た留学生にとって、クリスマスなんて関係ないしね。

ニューヨーク生活27

Thursday, December 4th, 2008

 

もうすぐ間近にクリスマスが迫ろうとしていた、それは12月中ごろの出来事でした。

この時期になると、ニューヨークもかなり寒くなり、ストリートで絵を売るのは正直キツいのです。

毎年クリスマスまではストリートに出て、再び再開するのは、年明けての3月頃です。1月、2月は到底寒くてストリートに出ることなどできません。

 

今年最後のチャンスとばかりに、ストリートアーティスト達は世間のクリスマス商戦に乗じて、なんとか自分の作品を売ろうとやっきになっています。

僕もそんな中の一人で、ここでなんとか1月、2月の生活費を捻出できればとたくらんでいる訳です。

 

そんなことを考えながら、ストリートに作品を並べ終わると間もなく、突然僕の目の前にビッグチャンスが降臨したのでした。

 

僕の前を黒いロングコートを身に纏った長身の日本人男性が、さっそうと歩いてきました。彼はチラッと僕の絵を見て、そのまま立ち去っていくのが見えました。

数秒後、また再びその彼が僕の作品の前に戻ってきて、「How mach is it?」と聞いてきたのが、ことの始まりでした。

 

僕は彼が日本人であることがわかっていたので、返事を日本語て答えたら、彼はビックリした様子でした。

無理もありません。その時の僕のいでたちは黒いロングコートに黒の革パン、黒いブーツ、耳まで隠れる黒いニット帽士に、黒いサングラスという格好でしたから、どうやら彼は僕のことを日本人とは思っていなかったようです。

 

それにしても後から考えますと、よくもこんなに怪しく見える僕に、彼は声をかけてきたものだと。

 

彼曰く、NYのデザイナーズホテルをイメージできるホテルを日本で作ろうとしているので、そんなイメージのできる絵を探しているのだと。

 

そして、僕の作品が気に入ったので売ってくれないかと言われました。

 

僕はどの絵が欲しいのかを聞きますと、とりあえずここにある作品全部欲しいと、そして、追加注文もしたいと言うではありませんか。

 

それを聞いて、もう僕の頭はくらくらしているのですからしょうがないですね。

こんなこと今までありませんでしたから。

おまけに彼は現金で、全ての絵の代金と送料を今払うと言いはるのです。

いったいいくらになるのか僕自身がわからない状況です。とにかく混乱する頭を出来るだけ冷静に保とうと、ただただ必死でした。

 

その後この寒い中、冷や汗をかきながら彼から代金を受け取った僕は、先ほどストリートに並べたばかりの絵を片付けだしたものだから、周りのアーティストが僕の異変に気付いてどうしたんだと聞いてきました。

 

僕は彼らに今までの経緯を話すと、皆一様にびっくりして、その後「おめでとう!」といって握手を求めて来ました。

 

その噂は瞬く間にストリートアーティストに広まり、次から次へとアーティスト達が僕に握手を求めに来ました。

 

握手を求めてくるというのは、おめでとうの意味もあるし、僕の幸運を少しでも分けてくれという意味もあるのです。

 

こういうのって、もっともアメリカらしいですよね。

 

こんな大金を持って、ニューヨークの街を歩いたことのない僕は、恥ずかしい話ですが、かなりビビってしまいまして、すぐにこの場でタクシーで帰ろうかと一瞬考えましたが、やはり苦学生の身分です。もったいなくていつものように地下鉄を使って家路へと向かいました。

今考えると、とても無謀なことをしました。

 

家に着いた僕は、パソコンの前に座り、早速彼からもらった名刺に書いてあるアドレスにアクセスしてみると、なんと彼は日本ではかなり有名な青年実業家だったのです。

 

このつかの間の出会いがきっかけで、僕は日本に帰国した後、彼とのつつましい交流を経て、彼の会社が僕のスポンサーとなってくれた訳なのです。

 

後になって彼から聞いた話ですが、その後彼はホテルに戻り、このストリートでの出来事を周りの人間に話したら、皆から怒られたそうです。どこの誰かもわからないストリートで絵を売っている人間にそんな大金渡したことを。そして皆から、絶対に絵は送ってこないだろうと言われたそうです。

冷静に考えれば、皆が言っていることは、けっして間違いだとは言えません。

でもあの時の彼は、僕のことをまったく疑っていませんでしたし、当然のこと僕は僕で彼との約束はクリスマスのビッグプレゼントとして、自分の全身全霊をつくして注文の絵を描き上げようと強く決心していました。

 

人の縁とは、なんとも不思議なものです。

 

その後、ホテルは完成して、彼のねらいは大当たり。もちろん大盛況となったのは言うまでもありません。

 

リラックスリゾートホテル http://www.alcazaba.co.jp/hotel/index.html

ニューヨーク生活26

Monday, October 27th, 2008

 

その日はとても暑い日でした。

学校が夏のバカンス中だった僕は、自宅でのんびりと過ごしていました。

たぶん昼過ぎ頃でしたか、丁度パソコンでメールを書いている時に突然画面が真っ黒になりました。

あれっ、どうしたのかな?と思い、部屋をうろうろしていると、テレビやビデオの電源が切れているのに気がつき、どうやら停電らしいことがわかりました。

 

それは2003年8月14日のこと、北東アメリカで起こった大規模な停電だったのです。

 

そっとアパートの玄関を開けて廊下を見ますと、電気が消えて真っ暗だったので、このアパート全体が停電になっていることがわかりました。

 

さて、いったいどれくらいの範囲での停電なのか皆目検討がつきません。

どうしたものかと思案していると、そこへ朝から学校に行っていっていた彼女が帰ってきました。

僕は当時、付き合っていた彼女と暮らすため、ソーホーのアパートを出て、クイーンズのレゴパークという所に引っ越していたのでした。

ちなみにその彼女というのは、今の妻であります。

 

帰って来た彼女の話を聞くと、地下鉄も止まっているらしく、帰ってくる道すがら、お店の照明も信号も消えているということです。

話の内容から、かなり広範囲の停電であると推測できました。

彼女は運良く、地下鉄を降りたところで停電になったらしく、それほど深刻な事態にはいたらなかったのです。

 

こうなったらじたばたしたところで、どうしようもありません。電気が復旧するのを待つしかありません。

とりあえず、まだ明るいうちに懐中電灯、ロウソク、ランプ、食事などを用意して、夜に備えました。

 

とにかくこの日はうだるような暑さで、当然冷房も扇風機も使えないため、日が暮れだすと近所の人達は外でバーベキューを始めていました。さすがアメリカです。日常的によくバーベキューを庭やデッキでしているので、こういう突然の大停電になってもバーベキューをすぐに用意できるのです。

子供たちも何かのイベントと勘違いしているのか、キャッキャ、キャッキャと深夜まで大騒ぎでした。

近所のデリなどは、アイスクリームや飲み物を無料で配っていて、この停電で時間を持て余している連中が沢山お店の前でたむろしていましたね。

 

僕らも明るいうちに食事を準備していたので、ランプの灯りの元、慎ましやかな夕食をすませました。

食後に何か冷たいものが欲しいと思っていたところ、確か午前中にコーヒーを作って冷蔵庫で冷やしていたのを思い出しました。冷蔵庫を開けてコーヒーを取り出してみると、まだしっかりと冷たかったのです。

停電になってから冷蔵庫を開けないようにしていたおかげで、まだ冷蔵庫の中は冷えていたのです。

なんでしょう、この時飲んだアイスコーヒーほど、美味しいと感じたことはなかったです。停電になってから冷たいものを一切口にしていなかったので、その美味しさは格別で、今でも忘れられません。

 

久しぶりに音楽もない、テレビもインターネットも見ない静かな時間を過ごしました。

アパートの窓からは、マンハッタンの夜景がきれいに見えるのですが、この日は真っ暗なマンハッタンが見えました。

こんな風景はめったに見れるものではないと、しばらく窓の外を眺めていました。

 

翌朝、確か9時ぐらいに電気が復旧しましたと思います。

早速テレビをつけてニュースを見ますと、沢山のサラリーマンが家に帰ることができなく、公園や広場などで野宿をしている映像が流れていました。この時始めて昨夜の停電の大きさを知った次第です。

あらためて停電時に家にいて、幸運だったと思いました。

ニューヨークでも地域によっては電気以外に、水、ガスも止まったところもあったらしく、大変不便な経験をされた方達が大勢いたのでではないかと推測できます。

 

ただ、1965年にもニューヨークを中心に、同じ様な大停電がありまして、その時は商店などに強盗が入ったり、いろいろな凶悪事件がおきたみたいで、かなり治安が悪かったそうですが、今回は目立った事件も無く、無事に過ぎたようです。

まあ、1965年のニューヨークといえば、かなり治安の悪い頃ですからね。今とは比べものになりません。

 

実はその停電のあった2日後に僕は、日本に帰ることになっていまして、義兄がマイレージがあるからと、なんとビジネスクラスのチケットを送ってくれていたのです。

 

日本に帰る当日、JFK空港内のJALのラウンジでゆっくりくつろいでいますと、僕のすぐ隣に日本人のおじさんがドカッと座ってきました。

まだ空いているソファーが沢山あるのにわざわざ僕の隣に座らなくてもいいではないかと思いつつ、怪訝な顔でそのおじさんをチラッとみましたら、なんと今は亡き世界的な建築家、黒川紀章さんでした。

しばらくして、ラウンジにJALの方が来られて、アナウンスを始められました。

アナウンスによりますと、先日の停電により、機内食が用意できなかったので、申し訳ありませんが今回の機内食は幕の内弁当とさせてくださいという内容の説明をしていたと記憶しますが、その時突然、僕の隣に座っている黒川さんが「聞こえないよ!」と大きな声を張上げたのを思い出します。

 

大停電の余波が、こんなところにまでおよぶとは思いもしませんでした。

ニューヨーク生活25

Monday, September 8th, 2008

new-wtc.jpg 

 

僕のニューヨーク生活にとって、忘れてはいけない出来事がありました。

 

それは2001年、アメリカで起きた、9.11同時多発テロ事件です。

 

事件の当日、僕はソーホーのアパートにいました。

 

丁度そのころ、昼からの授業までの時間、朝の作品制作の作業を部屋でしているとことでした。

”ドン!”という音と、誰かが叫んだ悲鳴のようなものが聞こえたので、またアパートの前の交差点で車がぶつかったのだと思っていたところ、時間が経つにつれて、ザワザワと人の声が聞こえて、外の様子の異変を感たのでした。

 

ただならぬ外の様子に、何事かと思い作業を中断して、部屋の窓から外の様子を伺っていたところ、部屋でつけてあったテレビの映像が突然変わって、ワールドトレードセンタービルが燃えている映像が流れたのです。

 

僕の住んでいたソーホーのアパートは、ワールドトレードセンタービルに比較的近い場所でしたので、飛行機がビルに衝突した時の衝撃音と、その瞬間を目撃した人々の叫び声が、最初に聞こえた音だったのです。

 

しばらくすると、真っ白い灰を頭からかぶったビジネスマンの群衆が、僕のアパートの前をぞろぞろとアップタウンに向かって重い足取りで歩いていく光景が見えました。

 

これはいったい夢なのか、現実なのか、目の前で起きている情景を頭できっちと整理できないまま、ただ呆然と窓の外を見ていた記憶があります。

 

 

その年の大晦日の夜、いつもならどかこのパーティーに潜り込んでいるであろう僕ですが、その年は静かに新年を迎えたい心境だったのか、一人おとなしくアパートで過ごしていました。

 

テレビをつけると丁度、タイムズスクエアで行なわれている恒例のカウントダウンの中継をしていました。

いつもとは違う厳重な警備の中、深夜0時と同時にカウントが終わり、大きなくす玉が割れて夜空いっぱいに紙吹雪が舞う中、フランク・シナトラが歌う「ニューヨーク・ニューヨーク」が流れ出しました。

それをぼんやり聞きながら、いろんな事が頭の中を駆け巡りました。

 

テロ直後、街の風景が一変したのを思い出します。

大きな地下鉄の駅にはM16自動小銃を構えた警察官が睨みをきかせ、公共施設の建物に入るには、荷物検査と金属探知機の中を通らなければならなくなりました。

僕のアパートのある地域からダウンタウン側では、人も車両も立ち入ることができなくなり、そこに住んでいる住民は、写真付きの身分証明書をいつも携帯し、いちいち検問所で提示しなければ、中に立ち入ることができなくなり、近所に買い物に行くにも、なにかとわずらわしさがありました。

 

こんな状況では、当分ストリートで絵を売ることもできないだろうと諦めていましたので、当面の生活費をどうやって工面するか、いろいろと思いあぐねる中、炭素菌騒動などもあり、次なるテロの脅威を感じて、一時は日本に帰国することを真剣に考えていたこともありました。

 

また、ニューヨーク市内では、アメリカ国旗が車の車体やお店の入り口、部屋の窓、建物の壁と、あるとあらゆる所に貼付けられていたのでした。

 

日本人の僕の目には、それはとても異様な光景と映りました。特にアメリカ国旗をベタベタと貼っていた街は、チャイナタウン(中華街)でした。

なぜチャイナタウンなのかと思われるかもしれませんが、中国から来た彼らは、テロ以降のアメリカ人の強烈なナショナリズムを強く肌で感じていたに違いありません。

彼らはアメリカのためにというのではなく、身の安全、防衛本能から、自分たちはアメリカの味方なのだという意思表示をしているのだと僕は感じました。

 

テロによってもたらされた、アメリカ人の怒りの矛先が、日頃の不満や鬱憤と重なり、移民者、マイノリティーに向けられそうな気運があったのでした。

ロス暴動の時と同じ様に。

 

アメリカ社会の中で懸命に生きている彼らは、僕のような一留学生が感じている以上に、世の中の動きを敏感に察知しているのでしょう。

 

テロ以降の世の中の変わり様、僕自身の心の葛藤や矛盾など、そんなことを思いながら2002年の新年を向かえた記憶があります。

 

今のニューヨークはあの事件が遠い過去の出来事のように人々の記憶から薄れています。

僕自身もテロのことを思い出すことはめったにありません。

それだけ世の中はめまぐるしく変り、進んでいっているのだと痛感します。

 

結局、2004年に日本に帰国するまで、僕はテロの現場”グランド ゼロ”には行けませんでした。

 

日本に帰国するまでには、テロの現場をこの目で一度は見ておかなければいけないという思いと、悲惨な思い出の現場には行きたくないという思いがあり、そうしているうちに時が経ってしまいました。

 

あれから、もうすぐ7年になるのですね。早いものです。

 

(添付写真 New World Trade Center)

ニューヨーク生活24

Tuesday, August 19th, 2008

不思議と”ホールド アップ”(拳銃をいきなり突きつけられること。)の被害にあったりする人間は、何度も経験していたりするものです。

中には同じ場所で、2回もホールド アップに遭ってしまった人間を知っています。

被害に遭遇しない人間は、一回も遭遇しないものです。

 

狙われるタイプというのがあるみたいです。悪い奴らから見れば、狙いやすいタイプというのがあるのでしょうか。

 

僕はといいますと、ありがたいことに一回もありません。

ただ、ニューヨーク生活に慣れた頃、知らず知らずに気のゆるみがあったのでしょうか、詐欺まがいなことに巻き込まれそうになったことがありました。

 

それはある冬の日の事、先日降った雪がまだ道路脇に残っている、観光客の多いタイムズスクエアを、足下の雪に注意しながら急ぎ足で歩いていますと、突然前から来た人と軽く接触してしまいました。

 

僕は「sorry!」と言いながら、そのまま通り過ぎようとしたら、呼び止められたのでした。

僕を呼び止めたのは、背の高い黒人の男でした。

どうやら彼は、僕と接触した時に眼鏡を地面に落としたらしく、その時に眼鏡のレンズにヒビが入ったと、僕に訴えてきたのでした。

 

はたして道路に落としただけで、眼鏡のレンズにヒビが入るなどとは、とても考えづらいのですが、こちらとしても落とした所を見ていないので、なんとも言えません。

しかしその男はけっして弁償してくれとは言いません。とりあえず眼鏡がないと仕事ができないと、嘆き悲しみながら訴えるのです。

 

その時、僕は男に対して本当に申し訳ない事をしたと思い込んでいました。

とりあえず、そのレンズがいくら(値段)するのか、その男に聞いたところ、男は上着のポケットから、くしゃくしゃのレンズの領収書を、わざわざ僕に見せてくれたのでした。

領収書の日付を見ると一年以上も前のものでした。

 

これはどう考えても怪しいではありませんか。

眼鏡のレンズの領収書を、なぜ上着のポケットに一年以上も持ち歩いているのでしょう。

男がご丁寧に領収書を見せてくれたおかげで、僕は男にはめられようとしとのだと、その時に確信できたのでした。

 

僕は男の目の前で、自分の眼鏡を地面に落とし、これくらいではレンズにヒビが入らないことを証明して、レンズの領収書を一年以上も持ち歩いていることの不自然さを男にとくと説明して、その場を後にしました。

 

後日、違う場所で同じ様なシュチエーションが”また!”ありまして、相手はまたしても黒人でしたが、この前の男ではありませんでした。

その時は、条件反射的に男が眼鏡を落とす瞬間をしっかり見ていました。

僕がしっかりと眼鏡を見ていたので、その男は何食わぬ顔をして、さっさと行ってしまいました。

 

これはあきらかに旅行者を狙った手口です。

しかし考えてみますと、こんなのもに2回も遭遇するとは、僕もまだまだニューヨーカーとは言えませんです。

 

そういえば、英語がなまじわかるようになってきた頃に、いろんな詐欺まがいなものに引っかかりやすいと誰かから聞いた事がありましたねぇ。